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お寿司屋さん

 投稿者:横浜の高清水  投稿日:2006年 5月 6日(土)23時34分24秒 i218-47-78-132.s01.a014.ap.plala.or.jp
返信・引用
  教えてください!
ホテルソニアに8月初めに家族4名(75歳車椅子使用母、13歳娘)で宿泊します。ホテル内にお寿司屋さんがありますが、迷っております。
街中のお寿司屋さんのほうが気になるのですが、実名でおすすめを教えていただけませんでしょうか?
 

ご訪問有難う御座います。

 投稿者:KO こうじろう  投稿日:2006年 4月27日(木)09時43分41秒 FLH1Abr001.hkd.mesh.ad.jp
返信・引用 編集済
  此処2日間で突然カウンターが300件にもなり嬉しい驚きでした。恐らく東京の
○○都立高校の皆様ではないかと感謝しております。9月に修学旅行のご予定と
か。楽しく有意義な旅行であればと、心より願っております。尚小樽に関しての
ご質問などありましたら、ご遠慮なくご相談下さい。出来る限り回答を致します。
(その他ご質問以外でも何でも宜しいです。当掲示板をご利用下さい)

追記 当ページに掲載の画像はビデオよりの転写ですが、画像をご入用の方は印刷
しても結構です。設定を写真規格になさればキャビネ判位までは大丈夫です。
 

あえぎ行く 坂ありてこそ・・・古色の街よ

 投稿者:KO こうじろう  投稿日:2006年 4月12日(水)12時48分8秒 FLH1Abr001.hkd.mesh.ad.jp
返信・引用 編集済
         あえぎ行く 坂ありてこそ 懐かしき
              古色の街よ 振り向けば海

この句は私が故郷小樽を語る時”古色の街”この部分に重要な意味を見い出し、
意識的に使って小樽の魅力を表現して来ました。然し今の小樽は坂の中腹に
多数の高層マンションが建ち始めており、中には運河沿い後方にさえも3~4
軒建ち、歴史的建造物保存の街並としての景観を侵食しております。これに対
し小樽市は建造物の高さ制限の条例化等で、何とか街並を守ろうとしています
が、これだけでは問題の解決にはならないのは明白です。小樽市の場合観光地
としての条件は ①歴史的建造物の街並保存、②海と起伏に富んだ山坂③何処
からでも街を見下ろせる眺望。この三点が「魅力ある観光地小樽」の必須条件
と考えられます。

一方小樽に住んでいる住民は全員が観光だけで、生活をしている訳ではなく、
ある程度の街並みの変容は時代の流れとして,止むを得ないのかも知れません。
しかし本州を旅して気付かれた方もおられると思いますが、倉庫や西洋的な
建物は小樽同様、保存対象になっています。只それ等の物件は小樽の様に街並
保存ではなく点在しています。その理由としては本州の街は歴史も古く、小樽
の様に明治維新後に一気に花開いた街ではないのです。すから明治、大正の文化
を形成する小樽は、日本全体から見ても貴重な存在であり学術的な価値すらある
と云えます。観光客が小樽にロマンを見い出すのは、小樽が明治、大正に花開い
た街だからではないでしょうか。

ある意味では、観光を守るから観光客が訪れるのではなく、文化資産を守った
結果観光客が小樽の姿勢を、支持して呉れたのだという事なのかも知れません。
過去にこんな事がありました。運河埋め立て論争の後、それ迄観光地としては、
名の売れていなかった小樽に突如人々が訪れる様になり驚いたものです。しかし
今から考えると小樽観光化の原因は運河論争が全国に報道された結果だったと
思われます。しかしこれも運河全面埋め立てだった場合は、今の小樽は無かった
のかも知れません。

観光小樽として、食の小樽、硝子工芸の小樽など色々と、小樽の代名詞があり
ます。しかし観光客に聞いたアンケートでは(96年ですが 傾向は現在と大差
ないと思われます)一位 小樽の建物に興味がある46パーセント、二~三位
飲食、工芸各20パーセント台)との事です。矢張り観光客にとってイメージ
する小樽があってそれに続く、サービスとしての食と工芸がある訳で文化的建造
物の転用は歓迎出来ても、建物を取り壊して迄サービスを提供する姿勢は小樽
全体の衰退に繋がりはしないかと杞憂致します。
 

大阪在住のおたるっ子さんへ

 投稿者:KO こうじろう  投稿日:2006年 4月 5日(水)17時11分33秒 FLH1Abr001.hkd.mesh.ad.jp
返信・引用 編集済
  ご投稿有難う御座いました。小樽が大好きなご様子文面から伝わってきました。
文の後半に書いて居らつしゃる某ホテルへの不信感、私も過去に他の掲示板で
あなたの意見を拝見しましたが、あの時は排他的、攻撃的な意見が多く気まずい
想いをされた事同情していました。あれ以来私もあの掲示板には今回まで訪問して
いませんでした。処で当ページには小樽全体の体制に拘わる建造物の事等具体的な
記述があります。又客引きなどの歴然としたものや、その他街全体の観光客に対す
る姿勢等、多々反省すべき点は多いかと思います。然しこのページで個々の施設内
での個々のやり取りの中で生じたトラブルに関しては、当事者間でない限りその
判断は飽く迄も推測の域でしか無い訳で、その様な状況の中でのコメントは、ある
者にとっては中傷誹謗ともとられる可能性もあり、掲示板というシステムの中では
差し控えた方が良いのではないかと思います。

ご期待に添えなくて御免なさい。でも宮崎のこと、小樽へのあなたの想いは私も
同感です。お互いこれからの小樽を、温かく時には厳しく見守って行きましょう。
これからも宜しくお願い致します

追記 駐車場問題に関しては小樽の地形その他の面ではホテル側も又被害者の場合
があります。(その場合の応対は充分気を付けるのは当然です)
 

小樽が好きなんです

 投稿者:大阪在住のおたるっ子メール  投稿日:2006年 4月 4日(火)05時08分36秒 p2152-ipad313osakakita.osaka.ocn.ne.jp
返信・引用
  昔、砂留町68番地という所に住まいしてました。小樽に在住の方でも懐かしい町名かも知れません。今は”長橋1丁目”こう言えばすぐに解かると思います。写真集に小樽商業と言うのが有りましたが、以前は小樽緑陵高等学校と言いそこの出身です。懐かしい方も多いと思います。
以前小樽観光を考えるに投稿した事があります。でも解かってもらえませんでした。それは関係者のてっぺんにいる人の関係するホテルの事を書いたからでしょう。
小樽は今は良いです・・・だからこそ心するべきと思います。
”こうじろう”さん宮崎をご存知ですか?昔新婚旅行のメッカとして栄えたところです。今ここを訊ねるとビックリします。ゴーストタウンです。今だ熱帯植物園なるものがあり入園料を取っていますが見るべきものは何も有りません。上記のホテルのことですが、少し書きます。まず小樽を代表するホテルでこの様な事がありました。ツイン二名¥24,000料金は良いですが、団体と同じフロアとても騒がしく・・・・・。多分とてもお安いのでしょう・・ここまでは我慢しましょう
ここからが許せないし解かっていません。正面入り口に車が一杯で宿泊客は車道を歩く始末です。フロントに言いました。これはあまりひどいのではと、そうしましたら駐車場がないんです・・・これが小樽で一番のホテルマンの答えでした。おもわず言いました”ニューギンザホテルと名前を変えたら・・・・
料金が高いのはそれに見合うおもてなしと私は考えますが如何でしょうか・・・小樽があの宮崎の青島辺りのようになって欲しくないのです。makyさんも書いてます“小樽”と言う文字に敏感に反応します。
小樽を出て45年小樽は良いです。在職中仕事にかこつけて良く小樽に行きました。旭展望台・オタモイ海岸・祝津海岸・手宮あたり・・・・沢山あります・・・もっと大切にと言いたいですね。
 

makyさんへ ご批評有難う御座います

 投稿者:KO こうじろう  投稿日:2006年 4月 2日(日)01時28分56秒 FLH1Abp019.hkd.mesh.ad.jp
返信・引用 編集済
  DVDお気に入っていただけた様子、制作者として非常に嬉しい限りです。小樽大好き人間の
私としては、最近の小樽の変容のあり方に少し疑問を抱いております。此の侭では何時の日か
小樽にロマンを求めて来られる観光客の皆様に、見放されるのではと心配しております。
その様な事から少しでも多くの方々に小樽に興味を持って頂き、小樽を訪問して下さる手助け
となれば、小樽の変容も健全な方向に向かうのではないかと、大それた期待から観光ビデオ
を制作した次第です。撮影から編集、ビデオ作成まで全部自作ですので解像度はプロには
及ばない面もあるかとは思いますが、水準は維持しておりますし、何よりも人に優しい画面
作りは出来たと自負しております。これからも皆様が「本当に知りたい小樽」を伝えて行く
積りです。宜しくお願い致します。

追記 makyさん 何の様な事でも結構です。今後も気軽にご投稿宜しくお願い致します。

http://www.otarukankou.jp

 

DVDが届きました!

 投稿者:makiメール  投稿日:2006年 4月 1日(土)16時58分29秒 ZQ084092.ppp.dion.ne.jp
返信・引用
  こんにちは!先日、DVDを申し込んだ者です。早速送って下さって、ありがとうございました!
両親が小樽出身で、私も、生まれるだけは小樽で生まれました。大人になってから訪れた小樽は、その良さを再認識せずにはいられませんでした。だって、海も坂も山も街角も、何気ない普通の古いお家も、道ばたの消火栓ですら、心に沁みる絵になっていましたから。加えて、小さい頃から、「小樽、小樽」と言われて育ったので、想いはまた特別ですよね。なので、「小樽」という文字があれば、雑誌はもちろん買っちゃいますし、テレビも、旅番組もワイド劇場も、ビデオに録画してしまいます。でも、もっと、小樽がぎゅっと詰まった物を求めていました。そして、KO こうじろうさんのHPを見つけました!
DVDは、とても満足致しました。じっくりと1シーン1シーンが観れて、音楽もよく、余計なナレーションがないので、それぞれの想いを馳せながら観る事が出来て、堪能させていただきました。母と一緒に観させていただきましたが、母も懐かしさいっぱいで、嬉しそうでした。
(ただ1点、夜景のシーンの「夜景」の黄色い文字が、画面のまん中に長い秒数あったので、映像がもったいなかったかも...。す、すみません...)
また、何度もくり返して観させていただきます。また、第2弾、第3弾があると嬉しいです。私は、今のように整備されていなかった頃の、雑草とお花に溢れた手宮線跡の風景が大好きでしたが、そんな、他の映像では観れないような、小樽の素敵が満載の作品を楽しみにしています。
長々とお邪魔致しました。また、寄らせていただきますね。これからも、どうぞよろしくお願い致します。
では、またっ。
 

小樽の歴史的建造物には「品格」がある

 投稿者:KO こうじろう  投稿日:2006年 3月29日(水)19時48分12秒 FLH1Abh001.hkd.mesh.ad.jp
返信・引用 編集済
  最近の日本人には「品格」が無いと云われます。昭和20年代迄あった恥じらい、思いやり、
滅私(めっし)、相手の立場に立った自己表現等、日本人独特の文化が失われ、人格を形成
する倫理観は何処へやら、只勝ち組負け犬なる言葉で、人の価値を決める風潮が蔓延してい
ます。若い女性の人前での化粧、地べたりあん、秩序を無視して投資を続けたホリエモン
など等、かっての日本人の価値観や美意識は大きく変容して仕舞いました。

一方観光地としての小樽に視点を転じると、残念ながら近年「品格」に欠ける建造物も
出始めております。例えば居抜き○○や隣接地に建設中の大型紳士服店等です。
歴史的建造物の建ちならぶ街並、或いは運河沿いに合わないと云う意味で品格が問われる
のです。

小樽を訪れる観光客は、今の時代に失われた数少ない郷愁を呼ぶ街並に、「ロマン」を求
めて訪れると云われております。然も小樽は街全体が「生きた博物館」なのです。ですか
らロマンがより鮮烈なのです。では「ロマン」の定義とは何でしょうか。解釈は色々ある
でしょうが、唯一無視出来ない「ロマン」に秘められた要素に「品格」があります。夢と
かロマンとはそう云うものであると私は考えます。

小樽の街が何故人々の心を癒すのか、それは各人の心の底に息づく古き良き時代への郷愁
、慈しみ(いつくしみ)を、この街に見出すからではないでしょうか。その意味で小樽の
街並は人に優しいのです。だからこそ「品格」が問われるのです。品格無くして夢は語れ
ません。与えられません。ですから観光地として人に優しい小樽とは、品位を保った今の
街並を残し人々に真の安らぎを提供する事ではないでしょうか。(ましてや強引な客引き
等は論外です)

http://www.otarukankou.jp

 

小樽商人の気概此処に!

 投稿者:KO こうじろう  投稿日:2006年 3月24日(金)01時32分18秒 FLH1Acl117.hkd.mesh.ad.jp
返信・引用 編集済
  小樽の運河沿いに立ち並ぶ倉庫や、銀行街に立つ商店には特徴的な飾りがある建物が多い。
例えば運河プラザや小樽博物館の屋根の鯱(しゃちほこ)です。又名取商店(大正硝子)や
多喜二に見られる、二階のひさし上部に突き出た「卯建ち」なるものも、今の北海道には
珍しい造形物です。この”うだち”は当時火事の多かった小樽で、類焼を避ける防火壁
として施工された物で、一般の民家よりも建築費が嵩み、かっては成功者が建てた事から、
成功者とそうでない者を区別して、うだつが上がる、上がらないの語原となったと云われて
おります。この事は当時の小樽商人のプライドの高さを示す事例の一つですが、あの時代
所謂内地から、北の果ての”新天地”に移住してきた人々にとって、商売の成功、不成功は
人格を定める尺度そのものだったのかも知れません。然し一方では貧富の差はかなり激しか
った様です。
 小樽の人に「しゃちほこ」や「うだち」の話をした事がありますが、「へ~ぇ、そんな物
あったっけ」でした。意外と知らない人が多いのです。
 

教えて下さい。

 投稿者:TAKUMI  投稿日:2006年 3月22日(水)22時56分5秒 softbank219168236016.bbtec.net
返信・引用
  KO こうじろう 様
お忙しい中、早速教えて頂き有難うございました。
小樽は絵になりそうなところが多い街なので、
又行って見たいと思います。有難う御座いました。
 

TAKUMIさんへ これはヨットの移動

 投稿者:KO こうじろう  投稿日:2006年 3月22日(水)22時00分56秒 FLH1Acg105.hkd.mesh.ad.jp
返信・引用 編集済
  この画像から判断すると、ヨットを陸に移動させるた為の”クレーンのような物です。
①で持ち上げ、②に載せて移動させる様です。
 

教えて下さい。

 投稿者:TAKUMIメール  投稿日:2006年 3月21日(火)13時46分6秒 softbank219168236016.bbtec.net
返信・引用
  初めて投稿させて頂きます
過日「祝津漁港」にて写真を撮ってきましたが、添付画像の右上に矢印で表示の
①と②の何かの設備らしいものの名前・役割をお判りの方教えて下さい。
この写真を観ていただくと、よく聞かれるものですから宜しくお願いいたします。
                                 TAKUMI

http://www.geocities.jp/takumi7707/

 

小樽運河は埋め立方式で造られた

 投稿者:KO こうじろう  投稿日:2006年 3月21日(火)00時13分27秒 FLH1Aci121.hkd.mesh.ad.jp
返信・引用 編集済
  小樽と云えば先ず最初に想いい浮かぶのは「小樽運河」ですが、この運河実は埋め立て方式
である事は、意外と知られていない様です。今も運河沿いにある倉庫群の前面は当時海岸と
なっており、船からの荷降ろしは、岸壁に梯子を掛けて行われていいました。この運河も
誕生する迄は紆余曲折、賛否両論があり10年以上もの激しい論争の末の事だったとか。
(何処かで聞いた様な?確か埋め立ての時も!)兎も角着工してから完成迄に9年もの年月
を要し、完成したのは大正12年でした。規模は幅40メートル、水深2.4メートル
延長1.324メートルと堂々たるものでしたが、その内約半分が昭和58年に幅を縮小
埋め立てられました。
工法は埋め立て予定地に、地元石切山から切り出した石で外郭等を囲い、港内から掬い採っ
た土砂を利用し運河の枠外だけを埋め立て港の整備もしたという、一挙両得の人海戦術だった
様です。あの時代北の小都市での、広大な土地の埋め立て工事、膨大な軽視と労力、それ
でも採算が採れると踏んだ小樽の実力は矢張り凄いものだったのでしょう。
 

「小樽雪あかりの路」がふるさとイベント大賞に輝く!!

 投稿者:KO こうじろう  投稿日:2006年 3月10日(金)11時14分37秒 FLH1Aas229.hkd.mesh.ad.jp
返信・引用 編集済
  小樽雪あかりの路が第10回イベント大賞を受賞しました。市民参加型の浪漫溢れるイベント
として今や全国的に知られる冬の行事も、関係者の並々ならぬ努力があればこそと、頭の下
がる想いです。関係者の皆さんごおめでとう御座います。受賞の対象は2005年度1月~12月
迄全国市町村で開催されたイベントの中から、創意と工夫に富み、地域の活性化に大きく
貢献したとされるものです。

大仕掛けではないが、人々を浪漫に導き癒す、小樽らしいこのイベントに大賞が与えら
れた事は、小樽のこれからの進むべき道を暗示している様な気がするのは私だけでしょう
か。

追記 私事になりますが”わが街小樽”に収録されている、雪あかりの路は選考対象と
なった2005年度のものです。2度と無いチャンスに恵まれた事に感謝しております。
 

道内初の鉄道は何故小樽手宮だったのか

 投稿者:KO こうじろう  投稿日:2006年 3月 8日(水)23時30分56秒 FLH1Acf183.hkd.mesh.ad.jp
返信・引用 編集済
  明治維新により日本の近代化政策は、順調に進められてはいたが、欧米列強に並らぶ
国家建設を目指す政府は、遅れている産業革命を推し進める為に、欠かせられない
石炭資源の確保の必要に迫られていた。明治12年に幌内地区に良質の炭田があるとの
報告を受けた開拓使では輸送ルートを検討、札幌~石狩湾への輸送後小樽港港への
海上輸送案もあったが、最終的に札幌~小樽手宮間の鉄道施設案が採択された。
当時の政府の対応は驚くほど早く、建設に着手してから.6ヵ月後に完成という突貫工事
だった。幌内炭田の調査報告から、1年後の明治13年の事である。これは新橋~横浜、
神戸大阪に次ぐ、全国3番目の鉄道敷設である。この事は当時の政府が北海道や小樽に
掛ける期待が如何に大きかったかを物語っている。
 

小樽は街そもののが開拓博物館

 投稿者:KO こうじろう  投稿日:2006年 3月 5日(日)16時27分19秒 FLH1Aar066.hkd.mesh.ad.jp
返信・引用 編集済
   近代史的に札幌等の経済状況や、文化の発展度合いを見ると、結果的に大多数の部分で
明治時代に先人の残した、偉大なる資産を消滅させております。事の善し悪しは、論議の
分かれる処ですが、それに伴い遺産を守ろうとの見地から開拓村や明治村等が開設されま
した。然し此処に残念な事があります。この「場所」を見学しても、これは飽く迄も
所謂「展示物」でしかなく、そこに生きた人々の生活感が伝わって来ないのです。(知識
で想像は出来ますが・・・)
一方小樽の場合は小樽市指定の歴史的建造物は約70棟あり、その主要物件が街並として
保存されており、しかも倉庫群は商業施設として転用、中でも特筆に値するのは、100
年以上も時を刻み続ける大時計を設置、明治29年建設の建物その儘で営業を続ける商店
ありで、明治の街並と人間の息吹が、其の儘現代にタイムスリツプ出来る街になっており
ます。

 以上これから先、ある程度の変容は避けられない小樽に、私たちはどう拘わって行けば
 良いのかの指標になればとの想いから記入致しました。
 

オタルナイは新川(札幌)の下流に!?

 投稿者:KO こうじろう  投稿日:2006年 3月 4日(土)16時48分17秒 FLH1Abv064.hkd.mesh.ad.jp
返信・引用 編集済
  Nさん当然の疑問ですね。小樽の地名についての、「オタルナイ」は意外に何処を探しても
ありません。そこで憶測して見ました。昔和人の様に住んでいる「場所」を広い意味で統
治し政治を施さなかったアイヌ人に、広い土地の名称は必要だったのでしょうか。例えば
札幌はアイヌ語で「サツ ホロ」といい、豊平川を限定しています。豊平川の事はサツ
(乾いた)ホロは(広い)という意味ですが、乾いた広い豊平川とは少し変です。恐らく
良い意味で広い川原の事を指しているのではないかと推察致します。
アイヌ人の地名の付け方は、その土地の自然環境の特色を具体的に表記したものが多く、
又その特色はごく一部の狭い区域に限られていたように思われます。広く解釈して、昔の
円山から豊平川を堺に、札幌としたのは和人です。
話題を小樽に戻します。小樽にも色々なアイヌ語の地名があります。稲穂はアイヌ語で
イナウ(木でケヅッタ幣(ヘイ)色内 イオルナイ(足跡)等です。然し此処で憶測を働か
せると昔のアイヌ人は所謂和人や、現代人の様に区域(町内)を連結して広域活動をして
いたとは考え難く、従って小樽も札幌も大きな地域としての呼び名は無かったと思われます。

注 アイヌ人、和人と呼称を分けておりますが、他意はありません。文章の記述上
止む無く使用させて頂きました。
 

なるほど(^‐^)

 投稿者:メール  投稿日:2006年 3月 4日(土)14時34分1秒 bbx_biz302.nttbiz.com
返信・引用
  全く知りませんでした!
小樽とは‥そんな由来と経緯があったのですねぇ…。結局のところ、元々の土地とは無関係な地名が付けられたって事ですものね。

あれ?じゃあ、アイヌの人達は昔小樽を何と呼んでいたのでしょう?とても気になりますねー(^-^)

深く考え過ぎでしょうか?
 

小樽発祥のあらまし②

 投稿者:KO こうじろう  投稿日:2006年 3月 3日(金)18時12分14秒 FLH1Acj122.hkd.mesh.ad.jp
返信・引用 編集済
  北海道の地名の大多数は、アイヌ語に由来しているがその意味するものは、地形と蜜接な
関係にある。小樽の語原となった「オタルナイ」も例外ではなく、アイヌ語で”砂の中を
流れる川”の意味がある。然し此処で一寸とした疑問が残る。山坂の多い小樽に果たして
”砂の中を流れる川”なる地形が存在するのだろうか。実はこのオタルナイは、400年程前
現在の札幌市の西区から銭函の浜辺を、大きく蛇行しながら石狩湾へと流れていた、新川
と呼ばれる川が起源だったのである。(発祥の記念碑は樽川にあります。b画像参照)
その河口に松前藩の八木勘右門が漁場を開き、これをオタルナイ場所としたのが始まりで
ある。然し漁業は隆盛であつても、船の出入りする港としては、機能的ではない為利便性の
高い現在の小樽市内入船河口に、小樽場所を移したが名称はそのまま受け継がれた。
以後その名はオタルナイから、オタナイ、尾樽内、小足内、舗足内と変化し、小樽となっ
たのは、明治2年に維新政府が蝦夷地に開拓使を置き、名称も北海道と改めた時からである
 

小樽発祥のあらまし①

 投稿者:KO こうじろう  投稿日:2006年 2月23日(木)15時17分9秒 FLH1Aas131.hkd.mesh.ad.jp
返信・引用 編集済
   江戸時代徳川幕府の経済体制は米本位だった。当時蝦夷地と呼ばれた北海道の統治を
任されていた松前藩は米の獲れない蝦夷地の特殊事情から、幕府の許可のもと家臣の俸禄
は米ではなく、アイヌ人との交易を認め、その収入を俸禄として家臣に与えていた。家臣
は交易取引を決められた区域毎に商人に任せ、利益の一部を運上金として収めさせてい
た。この交易の決められた区域を「場所」といい、その商人を「場所請負人」と呼んい
た。この場所請負人が場所毎に作ったのが「運上屋(家)」である。
その後オタルナイ場所は繁栄し、その財政に目を付けた幕府はオタルナイ場所を、高島場
所と現在の妙見川「旧オコバチ川」を堺にしたオタルナイ場所の二場所とし、村並制度を
布き統治した。時は1865年明治維新の3年前の事である。なお当時の人口は314戸1143人で
あった。

  次回は愈々小樽開基  オタルナイの名称は現札幌 新川沿いにあった。?!!

http://www.otarukankou.jp

 

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