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質問にお答えいたします

 投稿者:わが街小樽管理者  投稿日:2008年 5月14日(水)15時34分55秒 FLH1Acf022.hkd.mesh.ad.jp
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  杉崎さんへ

小樽発祥のあらまし①

江戸時代徳川幕府の経済体制は米本位でした。当時蝦夷地と呼ばれた北海道の統治を
任されていた松前藩は米の獲れない蝦夷地の特殊事情から、幕府の許可のもと家臣への
俸禄は米ではなく、アイヌとの交易を認め、その収入を俸禄として家臣に与えていました。
家臣達は交易取引を決められた区域毎に商人に任せ利益の一部を運上金として収めさせて
いました。この交易の決められた区域を「場所」といいその商人を場所請負人と呼んでい
た。この場所請負人が場所毎に作ったのが運上屋(家)です。その後オタルナイ場所は隆盛
を極めその財政に目を付けた幕府はオタルナイ場所を高島場所と、現在の妙見川{旧オコバ
チ川)を堺にしたオタルナイ場所の2場所とし、村並制度を布き統治した。時は1865年
明治維新の3年前の事である。当時の人口314戸1143人

小樽発祥のあらまし②

北海道の地名の大多数は、アイヌ語に由来しているがその意味するものは、地形と蜜接な
関係がある.小樽の語源となった「オタルナイ」も例外ではなく、アイヌ語で”砂の中を
流れる川”の意味がある。しかし此処で一寸した疑問が残る。山坂の多い小樽に果たして
”砂の中を流れる川”なる地形が存在するのだろうか。実はこのオタルナイは400年程
前、現在の札幌市の西区から銭函の砂浜を大きく蛇行しながら、石狩湾へと流れていた新川
と呼ばれる川が起源だったのである。(発祥の記念碑は樽川にあります。画像参照)その河
口に松前藩の八木勘右門が漁場を開きこれをオタルナイ場所としたのが始まりである。しか
し漁業は隆盛であっても船の出入りする港としては、機能的ではない為、利便性の高い現在
の小樽市内入船河口に小樽場所が移されたが名称はそのまま受け継がれた。以後その名は
オタルナイから、オタナイ、尾樽内、小足内、舗足内と変化し、小樽となったのは明治2年
に維新政府が蝦夷地に開拓使を置き名称も北海道と改めた時からである。後に小樽に港湾や
鉄道が整備される事になるが、これは決して鰊漁が盛んだった為ではなく、当時の明治政府
は小樽に別の目的、使命を期待していたのである。

以上記述して参りましたが、このご質問は過去にも多々ありましたので、当hpの
http://www.otarukankou.jp"小樽の歴史あれこれに詳しく掲載して居りますので
ご覧下さい。

尚この度種々ご質問がありましたが、見学場所、お食事処等の具体的記入がなく
返答に窮して居ります。中には仲間内の、遊びなのでしょうが殴るぞ殺すぞ等
の書き込みがありましたので7通程削除させて頂きました。

中学生さん(いいとこ)は建物でしょうか。食べ物でしょうか。若し食べ物でしたら
この掲示板を種別に纏めたー小樽寿司、グルメ 小樽観光の質問と回答集がHP内に
ありますのでご覧下さい。建物については、小樽歴史的建造物一欄にもあります。
手を省いたようですが、若し食事の質問でしたら、予算と好み等を具体的に後記入
されますと、お答ええ出来るのですが・・・・
楽しいご旅行でありますように念じております。
 
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